2019年度 北京中国語生徒募集! 台湾中国語生徒募集!各種中文資格試験者募集!漢詩、宋辞、古漢文生徒募集!




























































































































中国,台湾,日本の民族文化を交流及び言語教育ための




 
 
 
 








連絡先は
(日本)
(海外)

概要  中国文化サロン(China Culture Saloon)は、日中文化交流を促進する目的で1987年に創設しました。中国語の標準語教室、台湾語教室、広東語教室、など日本全国範囲で運営しています。その他、中国語−日本語−英語−ロシア語−韓国語の実務翻訳事業、中国文化関連活動、中国芸術サロン、通信販売など中国文化関連の事業を運営しています。近年以来、日本企業が中国大陸へ進出していることに伴い、中国の工場管理、貿易トラブル解消アドバイザーなど貿易関連をサポートする事業など好評をいただいております。とくに最近の数年は、中日政治関係がかなり悪化し、両国の間では、さまざまな問題に庶民の目線や心は奪われて、友好や親善などの穏やかな雰囲気が、あっという間に吹き飛ばされました。日中邦交回復40年以来、日中関係は「ジグザグ」でした。しかし中国と日本は、世界でも無類な同じ漢字を使用する「同文異化」の二国です。日本人は「漢字の故郷」として中国を認識していますが、中国人は千単位の漢字の日本製単語も使っています。中国と日本は、歴史でも、現代でも、切っても切れない近隣というか、親戚というか、兄弟というかのような関係ですので、お互いに反目的な関係はいつまでも続かないでしょう。歴史を見渡せば、縄文時代、弥生時代以来、日本と大陸の王朝はずっと友好ブーム、600年〜618年には、5回の遣隋使も派遣しました。663年朝鮮半島の白村江での戦いは、日本と唐朝1回目の反目関係になりました。その2年後の665年、唐から使節来日、遣唐使再開、正常な国交関係に戻りました。754年鑑真和尚来日、友好ブームは1000年以上続きました。中近代以来1894年日清戦争、1927年山東出兵、1928年張作霖事件、1931年〜1945年日中戦争、日中は再び反目の関係に落ち入りました。しかし1972年日中友好条約から、やっと友好ブームに戻りました。弥生時代始め頃から今までの2300年以上の間で、お互いに反目の時期は100年にも満たないのです。歴史の大半は友好や正常な国関係ですので、日中の将来は必ず友好や正常に戻るでしょう。中国と日本は共同文化の原点に戻って、共同文化の基礎から新しい豊かな斬新な日中関係を迎えましょう。






ここで紹介させていただいた各地の中国文化サロン語学講師のネットワークは中国大陸の中国語普通話(標準語、簡体字、ぴん音字符)、台湾の国語(繁体字、注音字符)、台湾語(即ち大陸のビン南語、福建語)、広東語(香港語、広州語)及び中国の民族語とするモンゴル語、朝鮮語(韓国語)などです。その他、ロシア語と英語などもあります。日本全国の広い範囲に渡る個人授業をメインとする語学講師のグループです!本部は、京都市内にある「中国文化サロン」です。!

           中国文化サロンの語学ネットワーク

        中国語 台湾語 広東語 韓国語 モンゴル語 ロシア語  
   

連絡先は
(日本)
(海外)

下のロゴをクリック








日本社会に融けこんだ華夏文化

京都府丹後半島にの「間人伝説」と「函石浜遺跡」中の大陸渡来人 中国大陸の秦朝は紀元前500年前後、日本ではこの時代はすでに漢字を使っていました。そして、秦朝以後の日本では、多少文字が残って、これは大陸から渡来人の伝説になりました。さらに、あの時代以前、大陸から日本へ漂流きた「史前渡来人」は数えないだろう。たとえ、日本京都府北の丹後半島の「間人」(発音は、漢字と関係なく、不思議な発音、たいざ)という海辺の町は、間人蟹として有名です。「間人」の名前の由来は、飛鳥時代の用明天皇(585-587年)の皇后すなわち聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」は戦乱を避けるために当地で身を寄せて後に去る前に、自分の名前を地名として贈りました。漢字は「間人」、発音は「退座」という奇妙な地名です。当地では、いままで不思議な風習があります:死者は、大陸に向けて埋葬すること(この風習はもちろん明治時代以前でたした、現在の日本では、土葬は天皇のみです;)。この地域には、読めない石碑や、古墳も点在分布しています。筆者の間人出身の日本人友は、自分の祖先は大陸漂流来たと父から言われて、中国語勉強始まりました。1994年、筆者はこの町の隣の京都府丹後半島の峰山町で、大陸からの一枚の「方格規矩四神鏡」が大田5号古墳で発掘された報告会を参加しました。この報告会で北京の考古研究所の専門家も参加しました。この鏡の裏面に、「青龍3年(235年)顔氏作鏡成文章」と刻んでいます。銘文は「左龍右虎避不詳、朱爵玄武順陰陽、八子九孫治中央、寿如金石宜候王」(訳文は、この鏡には、右で龍左で虎があり、不吉なことを避けれる、赤い爵と玄武の紋様は、陰陽の気を順応できる、八人の子と九人の孫は国を治める、寿は金石のような永遠に続いて王様に適応な鏡とございます)。この鏡も函石浜遺跡の付近で発掘されたことです。すなわち、丹後半島は、大陸からの渡来人の飛び石だろうか。近くにいる「函石浜遺跡」には、中国大陸前漢王莽時代(紀元前46年〜23年)の貨幣も出土しています。この遺跡は組み合い式の石棺がありので「函石遺跡」と命名されました。(凌炎)

 
王莽

 上のは発掘した前漢王莽時代の刀幣、下は王莽貨幣大泉五十。



 









着物のルーツは隋朝或は弥生時代の貫頭衣?縄文弥生古墳時期の大和服裝◇縄文時代と弥生時代の土偶から見れば、衣服を着ていることは間違いません。材料は獣か魚の皮や羽毛、木の皮などだろうか。それから、植物繊維たとえば麻で編み物に変りました。 3世紀末中国の歴史記録の本「三国志」中「魏志」第30巻に「倭人伝」があります。その中には「男子皆露紒/以木緜招頭/其衣幅/但結束相連/略無縫/婦人被髮屈紒/作衣如單被/穿其中央/貫頭衣之/種禾稻紵麻蠶桑/緝績出細紵縑緜」 日本語の訳文は「男性子供は皆髷、棉の布を頭を巻く、服は一枚の布で横方向で結んで接合、縫はちょっとあり、女性は髪を肩の後ろで垂れて、先に廻して髷のように止め、服の形はまるで一枚布の布団、頭は布団の中央を貫く、貫頭衣である」。残念ながら、この貫頭衣を着ている土偶はなかった。でも、下の土偶の男性の服と帽子はかなりファションではないか?メガネ?も掛けているか?上衣は動き安いディザイン、下は裙のような穿くと脱ぐ安いディザイン。服の上に縄文流行な花紋もあります。更に、ネックレスも掛けています。上下のバランスはかなり取っていました。女性らしい土偶はまるで縄文のウィーナス。この土偶は平成4年(1993年)山形県舟町の西ノ前遺跡から発掘した。高さは45センチ、日本では最大といわれます。女性らしい体型ですが、頭に「棉の布を頭を巻く」らしい。上は薄い服が、下は、キュロットスカートのような着物です。かなりすてき!古墳時代の墓から発掘された埴輪は、当時の服は男女ともに上下分けていた、男性は狭い上衣とゆったりしたズボンのような袴で、ひざ下をひもで結んでいます。女性は上衣と喪(裾の長いロングスカート)の姿でした。襟は男女ともに左前の盤領(あげくび)という詰衿形式が多かった。抄』まで、「論語」に関するさまざまな史料を紹介します。(凌炎)


 
江戸時代以前から、日本の通貨は大陸の銅銭でしたー日中貿易の歴史を語る銅銭  ◇2016年ゴールデンウィークの最中、京都府の田舎の道の駅で、一軒古道具の出店があり、偶然にさまざまな銅銭を見付けました。細かく選んでみたら、日本江戸時代の銅銭があり、外には中国大陸の宋代から清代までの8種の古銅銭を見つけました。その中には、北宋時代(960年〜1279年)の三代目皇帝の宋真宗の銅銭 ◆@「咸平元宝」(紀元998年発行)が一番古いものでした。 2番目に古い銅銭は、北宋六代目神宗皇帝が即位した元豊元年(1078年)に発行した◆A「元豊通宝」でした。さらに、驚きの発見は、清の主要時代の4つ時代の銅銭も発見しました。◆B「康熙通宝」:清朝第4代康熙皇帝1661-1722年発行。◆C「乾隆通宝」:清朝第6代乾隆皇帝1735-1795年発行。◆D「嘉慶通宝」:清朝第7代嘉慶皇帝1661-1795年発行。◆E「道光通宝」:清朝第8代道光皇帝1820-1850年発行。その以外には、純粋な日本の貨幣◆F「寛永通宝(1文)」◆G「寛永通宝{4文}」も発見しました。資料により、ェ永通宝(1文)  は 1659年 江戸時代前期の萬治2年に発行、ェ永通寶(4文) は 1768年江戸時代中期の明和5年に発行した貨幣でした。 ◇一瞬間、歴史のロマンを目の前に感じました。あの時代の大陸では、まだ匈奴という遼国と戦う時代でもあり、一方では、中国大陸の歴史大河中、著名な泰平時代でもありました。あの時代の北宋は、「市舶司」を設置し、日本、高麗との東洋貿易及び南洋諸国の南洋貿易を行ないました。日本では藤原時代でした。大宰府を設置し、監督して鴻臚館貿易が行われていました。宋からの輸入品は、宋銭、陶磁器、絹織物、書籍、仏教経典、墨、硯台、文具、香料、漢方薬、絵画、美術品などです。日本の輸出品は、銅鉱石、硫黄鉱石、木材、工芸品などでした。 ◇日本で銅銭が作られなかったのはどういう理由ですか。 富本銭とか、和同開珎、などが発行されたようですが、その後は長らく通貨として流行しなかったかどうかまだ不明です。資料によれば、奈良あたりから平安時代末期の平氏政権(1160-1185)までは、自ら通貨を発行せず、大量に宋銭を輸入していたようでした。鎌倉室町期も輸入に頼っていたのかも。◇日本では、銅を精錬できなかった為に輸入に頼っていたのでしょうか。通貨不足の部分は、私鋳銭といって、幕府が勝手に作りました。質のよい貨幣を作る技術が無かったのか、中国製に比べて劣っていたのでした。 貨幣を鋳造するには、高い技術が必要ですし、それ以上に、それを維持するために強大な権力も必要となります。さらには、世の中が安定していないといけません。◇長い歴史の中で、日本は銅鉱石を産出しましたが、それを精錬する技術があった中国に輸出して、貨幣を鋳造してもらっていたそうです。室町時代(1336-1573)の日明貿易でも銅銭がまさか主要品目だったようです。 ◇日本で通貨として大量の銅銭を作るは、江戸時代前期の万治2年(1659年)から発行した「寛永通宝」でした。寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永と呼びます。その後しばらく鋳造されない期間があり、まだ寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永と呼びます。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体も顕著な違いがあります。明和5年(1768)年江戸深川千田新田幕府の許可により日本で製造が始まりました。 ◇つい最近、北京でも「寛永通宝」が大量に発見されて、写真から見れば「新寛永」らしいです。清の時代まで中国大陸でも「寛永通宝」通貨が通用された記録があります。(凌炎)
@
A
B
C
D
E






 









日本関東の儒学学校「足利学校 史跡足利学校は、日本で最も古い学校としてしられでいます。その創建の年代は、いろんな説があります。歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439年)。関東管領上杉憲実が、学校を最興しました。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中も続けていました。生徒は三千と言われていました。明治5年、廃校になりました。また憲実の子、憲忠は五経のうち残りの易経「周易注疏を、子孫の憲房も貴重な書籍を寄進するなど、戦乱の世にもかかわらず、学問に意を注ぎ学校の基礎を固めました。室町時代には、儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く永正年間(1504〜1520)から天文年間(1532 〜1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり、学の祖である孔子が祀ってあり、建物の名称は大成殿。清楚で簡潔な聖廟の中には孔子坐像があり、今は、史跡足利学校の伝統行事「釋奠」に子供のころから関わることにより、足利学校への関心を持つとともに、郷土愛を育み伝統文化を継承していくことの大切さを学ぶことを目的に「こども釋奠」実施します。史跡足利学校は、孔子と孔子の弟子たちの言行をまとめた「論語」を中心に、『論語義疏」の複製から、史跡足利学校編の『論語抄』まで、「論語」に関するさまざまな史料を紹介します。(凌炎)

日本式算盤と中国式算盤算盤の起源は中国らしいのですが、定論がありませんでした。そして、歴史的に見て世界各文明の国には各種類の「算盤」がありました。例えばアステカ、アラブ、ギリシャ、バビロニア、ロシアなどさまざまな算盤があります。読み方と計算式が似ていると推測すれば、日本の算盤は、中国から影響受けたかもしれません。中国では、紀元前の頃から紐の結び目を使った計算方式や、算木を使用した籌算(ちゅうざん)と呼ばれる独自の計算方式がありました。これらは紐や竹の棒や木の棒で計算していたものであり、桁を次々に増やせる利点はありますが、珠の形ではありませんでした。珠の形になった最初の記録は、紀元200年頃、漢代の「数術記遺」という本に計算方式がありました。「珠算」の名称は宋代の「謝察微算経」から始まりました。なお三国時代より前から中国と中東・ローマには交易の痕跡があるため関羽が発明したと言う説もあります。中国の算盤は横木で上下分けます。13梁或いは15梁が主流です。上珠は2つ、下珠は5つ日本語の「そろばん」は「算盤」の中国読み「そぁんぱん」が変化したものだといわれています。中国の明の時代の1570年の文献「日本風土記」は、作者の明の侯継高(こうけいこう)氏は、倭寇(日本の海賊)の被害に悩まされていた中国人の、日本および日本人を知るための研究書です。この本には、日本語の算盤の発音「そおばん」が載っています。「そろばん」を「そおばん」と聞いたものと思われます。現存する日本最古のそろばんは前田利家所有のもので尊経閣文庫に保存されています。(凌炎)

中国式算盤、13梁(桁)×上2珠、下5珠

日本式算盤15桁×上1珠、下5珠




中国の宣紙と日本の和紙  中国で発見した最古の紙は前漢宣帝の紀元前202年の時期の紙と紀元前141年漢武帝時期の紙。東漢時代の105年蔡倫は漢和帝に紙を献上した「蔡候紙」記録もあります。東漢後期の「左伯紙」は白い高級な紙として登場しました。実際には、紀元前200年以前、大陸は、各地で紙を製造していました、4世紀、造紙技術は朝鮮に伝わり、7世紀頃、朝鮮から日本へ、751年欧州へ伝わりました。世界に大きく影響しました。2009年国連UNICEFは宣紙を人類非物質文化遺産リストに登録していました。宣紙の原料は、宋の蘇易簡の「紙譜」により、“蜀人以麻,人以嫩竹,北人以桑皮,溪以藤,海人以苔,浙人以麦麺稻桿,呉人以蚕,楚人以楮为纸。”。今は、宣紙の原料により4種類分けています:「棉料宣」稲70%檀皮30%、「綿連宣紙」:檀皮40% 、「浄皮宣紙」:檀皮60%、「特浄宣紙」:檀皮80%青檀の皮で造った宣紙は墨の痕跡を自由自在に制御できます、紙自身は強くて破り難い。一般書道は、青檀の皮の比例40%以下、水墨絵は60%-80%。日本の和紙製紙技術は飛鳥年代の513年五経博士が百済より渡来し、漢字と仏教を普及し始め、写経のために紙の需要がありました。610年(推古天皇18年)高句麗の僧侶曇徴から教わりました。和紙の原料は中国の宣紙の原料の青檀の皮と違い他の3種類の喬木の皮を使っています。@楮(こうぞ)、A三椏(みつまた)中国語は結香、B雁皮(がんぴ)の三種類です。2014年国連UNICEFは和紙も人類非物質文化遺産リストに登録していました。(凌炎)




鳥居

華表

牌坊




鳥居、華表、牌坊 鳥居は、国の「華表」から発想して作成された建築物との仮説があります。日本では昔、鳥居は「華表」とも書きました。もともと「門」の代わりを意味するものです。今は、神社の前に立てられて、神社を象徴します。時々仏教の寺院にも見られます。単独に立っている鳥居もあります。皇陵の前にもあります。しかし、鳥居は「華表」との類似性あまり多くないです。鳥居の起源はまだ不明です。華表は、「座」、「承露盤」、「蟠龍柱」、「蹲獸」で構成されています。中国を代表するシンボルです。昔、華表は宮殿、陵墓の道路の両側、「神道柱」ともいいます。伝説により、紀元前3000年の堯の時代、木で華表のようなものがありました。東漢から石の華表もありました。華表は通常、きめの粗い白玉を彫り上げたもので、台座は方形となっており、これを蓮華座、あるいは須弥座といいます。上面には龍の図案が彫刻され、蟠龍柱上には蟠龍盤とともに流雲紋が飾られています。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応しています。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」あるいは「望天吼」といいます。牌坊は、牌坊は「星門」から変化して来ました。霊星、即ち天田星です。豊かな年を求めために、漢高祖劉邦は「星門」を利用して「天」をお祭りします。宋の時代から「孔子」を祭るため「星門」を利用していました。(凌炎

納豆と四川の水豆ち  大徳寺納豆」は、大豆の発酵食品として、中国に渡航した僧が伝来したので、「寺納豆」とも呼ばれるようになりました。大徳寺では、一休宗純という禅師が伝えたとさています。中国の豆ちは、漢の時代「斉民要術」、「本草綱目」の中に細かく製造方法や料理方法など紹介しています。もっと古い記録は、秦の前期(日本の古墳時代)の文献にもありました。◇「日本納豆」は、どうして「納」という名前ですか?寺院の倉庫は「納所」で作りましたか? 日本の「本朝食鑑」にそういう説がありました。納豆は日本本来の食料ですか、或いは中国から伝来ですか?今の定論は日本のもともとの食料です。◇「四川の水豆ちいつの起源か記録はありませんでした。作成方法は、大豆を一晩水に付けて、煮た後、暖かいところで3日放置、発酵させます。生姜、四川山椒、白酒、塩と唐辛子と混ぜて、7−10日で粘りが出て、豆を煮た液を戻って混ぜます。特徴は、大豆の粘りがあり、液が豊富。「水豆ちと納豆の区別は、匂いです。納豆の匂いは中国人から見れば、腐敗している大豆と区別しません。やはり納豆を好きな中国人は少ないようです。「水豆ち」は大豆の発酵匂いを消すために、生姜の粒、香り強い白酒、特別な香りもつ四川花山椒を利用しています(凌炎)

京都大徳寺納豆

中国の豆ち

日本の納豆

四川の水豆ち






日本茶のルーツ梵釈寺と建仁寺  梵釈寺(ぼんしゃくじ)は平安時代からの古寺です。786年(延暦5年、唐徳宗時代)桓武天皇が創建しました。最初の名前は四天王寺、795年(延暦14年)梵釈寺を改名しました。嵯峨天皇が815年(弘仁6年、唐憲宗時代)に近江に行幸した際にここで梵釈寺の住職永忠は茶を煎じて奉った」という記録がありました。この記録は日本で茶の記録の始まります。遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰って、近江の辺りで栽培始めました。このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。日本には、お茶の記録はもう一つは、鎌倉初期(1191年)に京都の建仁寺の栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した 『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。これは、日本最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、深酒の癖の ある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。(凌炎)



左上図は宇治新茶の色
左下図は様々中国茶の色

獅子舞  中国の古代文献により、獅子舞最初の記載は 「漢書・礼楽誌」にあります。 その中には「像人」という役があり、その「像人」は、 魚、蝦、獅子を演じる役と解釈できます。それから「獅子舞」の起源時期は、紀元前の200年前後と分析できます。日本の平安時代(中国の唐代)の舞楽の各曲を描いた「信西古楽図」 は唐代の歌舞伎を日本へ伝えた図鑑です、その中には 獅子の首につけた綱を引く綱引と2人の獅子児がいます、 舞楽の獅子としてはじめての記載です。 『日本書紀』によると、 推古天皇20年(612)の頃、日本に帰化した百済(くだら)の美摩之が 呉の国で学んだ「伎楽舞」を伝えたとあります。 その伎楽というのは仏供養の楽舞としての一種の仮面行列で、 その先頭に悪魔払いの獅子が出るのです。 これが日本で最初の獅子舞かもしれません。即ち、日本では、朝鮮半島から輸入の獅子舞と中国から直輸入の獅子舞の 2系譜の獅子舞があります。一つは関東・東北地方で行われる鹿踊と呼ばれる 群舞する獅子舞。これは朝鮮半島から由来の日本古来の獅子舞です。もう一つ系譜は、大陸から伝来した伎楽系の唐獅子の頭に幌をつけた 二人立ちの獅子で、中部以西の西南日本で盛んに行なわれています。(凌炎)

右の写真:緑色服は日本の「獅子」、赤と黄の「獅子」は中国








不許酒肉五辛入山門  国から伝来の黄檗宗、曹洞宗、臨斉宗、天台宗、律宗などの寺院は必ずある戒律「不許酒肉五辛入門内」の石碑です。その意味と、どういう場所で誰が言った言葉なのか教えて頂ければと思います。宜しくお願い致します。という質問を頂きました。答えは、「不許酒肉五辛入門内」という言葉は、誰の言葉でもなく、仏教(特に浄土宗)の説教を纏めた庶民が理解しやすいための話し言葉です。 中国では、この言葉はいつもお寺の入り口に置く石碑に彫刻しています。 他に:「不許酒肉五辛入山門」や「山門外下馬」などの石碑もあります。「不許」は、中国語で「禁止」を意味します。 一番最初に、どこの寺から初めて書いたかは、調査は困難ですが、 このような言葉が源の「仏経」は、山ほどあります。 例えば:浄土宗の「大仏頂首楞経」、「大乗入楞厳経」には、 酒、肉、五辛などを禁止する説教が沢山あります。 五辛とは、玄弉和尚が最初に印度から唐朝へ持ち帰った仏経からの訳名です。 そのあと、様々な仏経及び訳本、解釈本にもあります。 それぞれの訳名は、若干違いますので、一種類ではないと思います。 仏経中の五辛は、以下の2種類と言われています: 葱(ネギ)、薤(にら)、韭(にら)、蒜(ニンニク)、興渠、 もう一種は:大蒜、慈葱、蘭葱、韭菜、興渠。漢方薬と中華料理中の五辛 は:葱(ネギ)、姜(ショウガ)、韭(にら)、蒜(ニンニク)、玉葱(タマネギ)など、 別の分類もあります。どうして五辛を制限させるですか。いろんな説がありますが、道理は簡単かもしりません。閉鎖的な経堂内、大蒜や韮など強い匂いある食材は聖なる雰囲気を台無しにさせるだろうか。もうひとつ理由は、中国の伝統仏教は禁欲主義の宗教ですので、大蒜、韮などの野菜は刺激性高い強壮剤或は催淫剤として禁止使用になったでしょうか。 (凌炎)

左の写真:奈良興福寺門傍にある石碑「不許酒肉五辛入門内



日本関西の儒学学校の閑谷学校 江戸時代の1670年建てられた旧岡山藩直営の庶民教育のために学校です。この学校の遺跡は日本では最古の庶民学校である。この学校の正面の奥は孔子の彫像があります。その後ろは孔子の故郷曲阜にある孔廟の大成殿と同じ名前の講堂があり。傍には曲阜にある孔廟の「孔子林」からもらった種で育った「楷の木」があり、秋には素晴らしい紅葉を見せます。講堂では中国式の毎月の1,11,21と6,16.26は儒学の四書五経などを勉強、5,15,と10,20は休み。講堂正面の壁「朱文公学規」が掛けられています、朱文公は朱子、朱熹です、宋時代の儒学家。この大講堂は中国本土以外の儒学勉強のための建築遺跡として世界でも唯一でしょう。当時、閑谷学校は武士のみならず庶民の子弟も教育した。生徒の年齢は8歳から20歳頃までいろいろ。今は学校内「特別史跡」、「国宝」、「重要文化財」、「登録有形文化財」など様々な公から保護指定があり、中国文化は江戸時代にどう影響したかについて研究する好い遺跡として推薦致します。(凌炎)



右の写真:岡山県備前市「閑谷学校」の正門






華僑の「家廟」のような純中国風の宇治市の黄檗山万福寺 http://www.obakusan.or.jp/ 江戸時代の1661年中国明朝時代の臨済宗の隠元禅師によって開山されました。隠元禅師は中国福建省福州府福清県にある黄檗山万福寺の住職でした。当時日本からの度重なる招請に応じ、63歳の時、弟子20名を伴って1654年来日来ました。京都府宇治市で中国の自寺と同じ「黄檗山万福寺」と名付けました。その後、日本では三大禅宗の臨済宗、曹洞宗と黄檗宗になりました。隠元禅師は、禅宗だけでなく、明代の美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理など広い範囲にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ばしました。隠元禅師は明朝からもって来た大陸のものは隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、筍、木魚などもありました。いままで、年々中国式の法式で忠実に継承しています。特に経の読みはいまも唐音とよばれる中国語を基本として読んでいます。(凌炎 )



左の写真:黄檗山万福寺の開山法師隠元禅師は明朝時代持てきた「インゲン豆

日本の餃子(ぎょうざ)文化  宇都宮市、浜松市は年間餃子消費量は日本第一を争っています、2012年総務省家計調査発表、餃子の1世帯当たりの購入金額は浜松市4313円、宇都宮市は3737円。他の県、市を遥かに超えています。日本では全国の国民は餃子好きと言われます。いま「日本餃子協会」は2000の会員も持っています。日本全国餃子有名な場所と店は「餃子の王将」全国出店、全国店舗は1日3万食言われています。他のチャン店は「紅虎餃子房」同じように全国展開。日本の餃子は中国餃子と違う点は、焼き餃子(鍋貼)メインです。やはり、餃子の王将店内、注文が受けた社員は大声は「グオティ三」を廚房にお知らせの中国語が飛んでいます。中国餃子のような干し海老があまり使えずに大蒜入れています。一人前は6ヶぐらい。たべる時中国人のように黒酢を使わずに、醤油メインの「餃子たね」を使っています。などなど。中国人の口にも合いますがやや淡白な感じです。(凌炎)










和歌山県新宮市「徐福公園」にの徐福象

日本各地の徐福伝説 奈良文化財究所、飛鳥資料館クラブ及び佐賀県徐福(じょふく)会のHPにより、徐福は、中国秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。司馬遷の「史記」の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、徐福は、秦の始皇帝に「東方の三神山」に長生不老の霊薬があると具申し、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って、東方に船出し「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。東方の三神山は蓬莱、方丈、瀛州のことだろうか。蓬莱山という山は日本でも広く知られ、「竹取物語」でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは、神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で「方壷」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となって。「東瀛」ともいう。魏晋南北朝時代の487年「瀛州」は中国の行政区分として制定される。同じ「史記」の秦始皇帝本紀に登場する徐福は始皇帝に不死不老の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝は現地に巡回したところ、実際には、出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており。「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。現在一般に流布している徐福像はほとんどが「淮南衝山列伝」に基づいたものである。(凌炎 修正)

日本の「和尚認定機関」を設立するために来日した鑑真和尚と奈良の唐招提寺は、世界遺産に登録。日本の律宗の総本山です。754年唐玄宗時代の天宝13年、日本の天平勝宝6年、鑑真大和上は、やっと日本へ来ました。東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に修行の道場を開きました。道場の目的は、仏教の戒律を勉強すると和尚の資格を授戒(認定)する。律宗とは、仏教徒や僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗教であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり。4万人以上の人々に授戒を行ったとされていました。鑑真大和上は、揚州の大明寺の住職であった、742年、日本から唐に渡った僧、栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された、奈良には、その時代、私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)が必要であり、聖武天皇は優秀な僧侶を探していた、やっと見つけました。鑑真大和上は21人に弟子うを連れて、4回の渡海失敗の末、5回目やっと成功しました。


右の写真:奈良唐招提寺の正堂









中日文化の掛け橋−鑑真和尚  66歳の鑑真和上(紀元688〜763)は、754年(天平勝宝6年)、日本にようやく到着することができました。鑑真和上は、唐の「垂簾聴政」の武則天皇后時代の垂拱4年に江蘇省揚州に生まれました。和尚さんになる前の俗名は「淳於」と言われています。14歳で貧困な家庭から出家,18歳の時、道岸律師により菩薩戒を受け、21歳で長安の実際寺で具足戒を受けて正式に僧侶になり、鑑真和尚と名づけました。それから長安や洛陽の各寺院で勉強しながら勤めました。その時代は、大陸で盛んな仏教は、やっと日本と関係を繋ぎました。天平の昔、二人の日本留学僧栄叡、普照は揚州をたずね、鑑真のもとに来て、伏してお願いしました、「仏法は東流して、日本国に至りましたが、法はあっても真髄を伝える人がいません。どうか日本に渡り、教え導いてください」すると、鑑真は言いました、「昔、日本には、仏法の興隆につくした王子(聖徳太子)がおられたことを聞いています。日本こそ仏法の栄える国です。われらの中から誰か日本国に行って、法を伝える者はいないのか」弟子たちは黙したままです。鑑真は、「仏法のためだ。どうして身命を惜しむのか。誰も行くものがなければ、私が行こう」と言いました。こうして鑑真が日本への渡航を決意したのが、五十五歳の時でした。五度目の渡航に失敗し、海南島に漂着し、揚州に向かう途中、視力の衰えを感じ、胡人の医師から手術を受けるが失明したと、鑑真の「東征記」には伝えられています。

左の写真:奈良唐招提寺にの鑑真和尚坐像

日本にある三大中華タウン:横浜中華街 横浜中華街は、1859年に横浜港が開かれる前までは、中華街の周辺は外国人商人が住む所でした。1866年(慶応2年)横浜新田慰留地を基礎として関帝廟と中華会館が建築されました。明治元年の1868年は中国人1000人、1900年は5000人になりました。神戸南京町神戸市中央区の元町通と栄町通にまたがる狭いエリアの通称で、正式な地名ではありません。「南京町商店街」の登録商標でもあり、中国風の意匠を特徴とするチャイナタウンでもあります日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねています。店頭の路上で点心、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わいます。長崎新地中華街 長崎県長崎市新地町に形成された中華街です。江戸時代の元禄(1688〜1704)に、対中貿易港として認められ、最盛時1万人の福建省出身の中国人が住んでいました。当時、長崎の人口は7万人。その時、貿易船が入らなかった時期に出島で住んでいたオランダ人はわずか15人でした。その後、中国人は丘陵地の唐人屋敷に限定されました。1698年大火災で唐人屋敷の前の海の埋め地で倉庫群を作って、「新地」と呼ばれました。その後、中国人は唐人屋敷を放棄し、交通便利の新地に集中していきます。そして新地中華街が形成されました。

横浜中華街の正門





800年前の宋の時代から伝統を守り続けている福井県の永平寺 2012年5月福井県の永平寺を参拝しました。永平寺は1227年中国大陸へ留学した道元法師が開山した日本の禅宗「曹洞宗」の寺です。1191年中国大陸で留学した栄西法師が開山した京都での禅宗「臨済宗」の建仁寺とともに日本で禅宗を広げました。「禅」は572年菩提達磨大師が初めました。達磨は印度の僧で、中国で活躍していました。少林寺て9年間「面壁座禅」で有名でした。永平寺は800年前道元法師は宋朝から戻って、教えた色々なことは弟子の懐奘が記録して「正法眼蔵随聞記」という本を作成しました。この本には徹底的に中国禅宗の作法などを記録していました。この本は、昔からこれまでも、禅宗のバイブルのような教科書として教えています。永平寺には道元法師の時代から今まで、たくさん「宋」の時代の「気息」が残されています。中国でも残されていなかったことが永平寺に残されています。例えば、道元法師の禅宗の基本「只管打座」という言葉は完全に中国語です!(文 凌炎 )



左の写真:福井市永平寺の「庫院」(台所と食堂)

京都三大祭り「祇園祭り」中の中国文化  毎年の7月1日から1か月間にわたって行われる「祇園祭」があります。この祭りは京都が都になった9世紀の貞観年間から1000年以上の歴史があります。もともと疫病の怨霊を追い払うために、863年(貞観5年)、八坂神社が神泉苑で「御霊会」を行なったことが祇園祭りのはじめでした。【作者注:唐の時代から、日本は首都を建設するうえで大陸の首都洛陽、長安を模範にしました。そして初めての首都は、690年奈良盆地で建設した藤原京でした。しかし、その後短い104年の間、何回も遷京しました。708年に平城京、784年に長岡京、最後、京都は794年、その時、京都は洛陽の別名もありました。大陸文化の憧れが見えます。頻繁に遷京した重大な理由の一つは、生活廃水処理の問題を解決できなくて厄病が大流行したことが原因でした。京都は桂川と鴨川、加茂川の3本の川が流れています。汚水の排水はこれまでと比べて順調でした。そして、京都は、都として1200年も続きました。1867年大政奉還、1877年遷京東京都。京都が都とした役割りはやっと終結しました。】 室町以来、祇園祭りは山鉾巡行の形になりました。今は32基の「山」と「鉾」には、中国の故事に関連した6基もあります。◆@函谷鉾 中国戦国時代、斉国の孟嘗君が秦国から逃げた時、函谷関の関所で鶏のなき声を真似て逃げることに成功した話 ◆A孟宗山 呉の国の孟宗が寒中に筍を食べたいという病母の願いを聞き、雪の竹薮で泣きだした、すると、突然筍が地面から次から次ぎへと出てきたという中国のニ十四孝の話の一つ ◆B鶏鉾 尭舜の時代、天下は泰平で、訴えごとのための太鼓には、苔が生え、鶏が巣を作ったという話 ◆C白楽天山 唐の有名な詩人白楽天(白居易)は当時、杭州太守でした。そして道林禅師は、杭州西湖畔の喜鵲寺の鳥巣禅師でした。ある日、白居易は木の上の鳥の巣の様なところに座っている道林禅師を訪問したときの、仏法について問答を交している場面を再現したものです。◆D菊水鉾 中国河南南陽の菊水を飲んで七百歳まで生きたという菊慈童の物話。この伝説はもともと中国起源ですが、日本で編集されて広く伝わりました。◆E伯牙山 中国の古琴の名人兪伯牙が、船で琴を弾くとき、曲をよく理解できるきこり鐘子期と知り合いました、その後、鐘子期の死を伝え聞いて、自分の琴を真に聴いてくれる人物はこの世にはなくなったと嘆き、鐘子期の墓前で琴を割ったという物語。 (作者は凌炎 イラスト 京都市宣伝資料から )

右の図:油天神山鉾(左)と螳螂山鉾(右)









山口県長門市油壷湾で見つけた楊貴妃の墓および日本の「楊貴妃信仰 1989年正月、一人で初めてのマイカーで本州西部旅行に出かけました。九州から関門海峡を横断して海辺に沿い191号線で山口県に進入。田園風景は素晴らしかった。長門市を超えると突然道路の傍に「楊貴妃の里」と信じなれない大きな看板が目に飛び見込んだ。びっくりしたまま、看板指示の通りに前進。伊上という交差点で66号線に入り、357号を曲がって道はかなり狭くて、道路は商店通りを走っていました。「楊貴妃の墓」の指示がありました。停車して見ると、「ニ尊院」という小寺がありました。「楊貴妃の墓」とは、只一尊の五輪塔です。銘文は?どこにも見つからなかった。雰囲気は、唐の時代ではなく、平安時代後期或いは鎌倉時代風「宝塔」の形の墓です。楊貴妃は唐玄宗の愛妃院として安史の乱中、四川へ逃げる途中、馬嵬坡という場所で反乱の兵士の命令で自ら縄を首にかけて自死した史実は、中国では、疑う人があまりなかった。のに、どういう風に日本へ逃げたかしら?あの時代日本は天平勝宝7、8年位。ちょうと鑑真和上は來日の次ぎの年、まさか鑑真和上のように日本へ渡しましたか?疑問だらけです。この時、見物者は私だけでなく、東京の中国大使館の館員3、4人も来ていました。この油壷湾の楊貴妃伝説に魅力かれたらしい。その以外、名古屋の熱田神宮には「楊貴妃墓の石塔と洗い川」、京都の泉涌寺には「楊貴妃観音堂」もあります。(文 凌炎 )




左の写真:山口県長門市油壷湾にいる「ニ尊院」寺傍の「楊貴妃墓」

大阪府高槻市「青龍三年の丘」の安満宮山古墳  2014年3月12日久しぶりの小春日和のいい天気です、京都から出発して、大阪府高槻市の若山神社から後方の若山へ登りました。315メートルの低山ですが、ゆっくりと歩き2時間かかりました。下山の時、「悠久の丘へ」の標示に従って、意外にも「安満宮山古墳」に出会いました。これは山歩きの意外な楽しみ、と興奮しました。古墳はかなり整理されて、透明なプラスチックケースを蓋しています、上から中が見えます。遺骨もちろんもうなかったけれども、遺骨位置の周辺は白い線で指示、副葬品はまさかの「青龍三年」()三国時代の235年)を凸鋳造した漢字の青銅鏡数枚でした。同じ「青龍三年」を凸鋳造した漢字の青銅鏡は1994年京都府の丹後半島弥栄町の「太田南古墳群」でも発見されていて。その時、発掘説明会も行いました。私も参加しました。北京中国科学院考古学家の数人も参加して見解を発表しました。資料によれば、235年は、中国大陸は後漢滅亡後の三国時代。青龍三年は魏明帝の魏の年号です。その時中国はまだ統一していません。三国時代は魏(黄河流域、華北平原の大部、渤海東海沿岸)、蜀(陝西、四川、貴州)、呉(長江下流)の「三国鼎立」時代でした。これら三国は、蜀国は内陸、呉国は東海と南海と近隣ですが、海辺は殆ど未開化の民族。この魏国は、中華文化の発源地ですし、海岸線は長いので、朝鮮半島の三国(新羅、高句麗、百済)、海を隔てた倭国との交流は当たり前のことでしょう。(写真、文 凌炎 )

右の写真:大阪府高槻市の安満宮山古墳





日本で発掘された様々な中国大陸制青銅鏡  1994年1月、京都府弥栄町峰山町は、「太田南古墳群の5号墳」その中で発掘された一枚の「青龍三年方格規矩四神鏡」に関する報告会が行われていました。主賓は中国から考古学の権威を持つ学者でした。この鏡は、珍しくて「青龍三年」という年号を刻んでいました。これは今まで青銅鏡発掘歴史で初めてのことでした。「青龍三年」と言えば235年、三国時代の蜀国の蜀後主(めちゃ有名な阿斗)、魏国の魏明帝、呉国の呉大帝の時代、日本では弥生時代でした。鏡の名前にある「方格規矩」は鏡表面の中心は四角、周辺はさまざまな垂直な角度の線が付いています。「四神」は四つ角で霊獣がいて、左は龍(青龍)、右は虎(白虎)、上は玄武(亀蛇)、下は朱雀(赤い鳥)。銘文は39文字あり:「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 寿如金石宜候王、日本語の訳は:「青龍三年、顔氏は鏡及び銘を作成した。左の龍と右の虎は不祥なことを避け、朱爵(朱雀)と玄武は陰陽八卦に順応、中心部の周辺にある大きな丸点8つは「子」、中心部小さな丸点9つは「孫」、寿命は青銅や石のように永遠に続く王様に支えるには最適」。(文 凌炎 )


左の写真:日本で発掘された様々な青銅鏡

紀伊半島の徐福公園−徐福伝説の集大成かなり素敵な「徐福公園」の玄関(しかし・・入場無料!)です。台湾の故宮の設計者の作品です。材料も殆ど台湾からのものです。気迫な気分で!徐福さまへ「粛然起敬」の気持ちになります。公園の中にある昔からの「秦徐福之碑」。この碑は和歌山県産の緑泥片岩の岩石に刻んだ文字の碑です。いつの時代で刻んだ文字かは、尚不明。一説には、初代の紀州藩主徳川頼宣の意思で中国人亡命者の儒臣李梅溪(明代?)が書いた文字で建てた碑です。「徐福公園」のトイレも中国風ですね。とてもきれいに清掃され、使用されています。公園の近く「徐福寿司」の店はあります。ちなみに、徐福公園の周辺は、「徐福ビジネスホテル」や「徐福・・・・」やあちこちに見られます。ガイドさんは、その中の一店の新宮名物「徐福寿司(さんま寿司)」を紹介してくれました。味は、さっぱりと、新鮮で本当に美味しいですよ。これを食べたら、徐福のイメージに、「食感」が加わりました。


右の写真:和歌山県新宮市の「徐福公園」の玄関




まさか日本で見られる銅馬車びっくり!1970年代陜西省西安の兵馬俑遺跡で出土した、ただ2台の銅馬車の中の一つを2007年愛知県知多郡で発見!スーパーマジックの様です!盆休みの間、数日前にあるテレビ番組で紹介されたのを自分の目で確認したいために知多半島へ行きました。南知多半島の海辺で一泊の後、HPの指示の通りで、やっと布土半月の田んぼの真ん中の一つに黒い倉庫のような建築物を発見、入り口に「美術の森」の指示があり、やはりここだ!乗ってきた車を建物の前の駐車場に置いて展覧室に入った。薄暗い照明の空間に、2台の青銅馬車と8頭の白い馬たちが目の前に現れました!大きさは大体実物の半分位、先頭の4頭の馬の後ろに青銅傘(なんという薄さ!)があり、立っているギョシャは、縄(材料不明)で馬を綱いで先導しているらしい、後ろの馬車の運転手は座って、背が低い馬車を操作しているらしい。なんと!これは兵馬俑遺跡を発掘の発掘品と言われています!


左の写真:愛知県知多郡田圃にいる「始皇帝の銅馬車」

正真正銘の避暑山荘の「澹泊敬誠殿」は琵琶湖畔で出現正真正銘の中国河北省承徳市郊外の歴代清朝皇帝の「避暑山荘」にある「澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)」を琵琶湖畔で見つけました:北京の北256キロの承徳の郊外には、清朝代々の皇帝の夏の離京「避暑山荘」があります。筆者は20数年前に、旅行したことがあります。しかし、その「避暑山荘」の「澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)」は、滋賀県の東近江市郊外の五個荘で発見。筆者は2009年5月のある日曜日、「1000円高速」(2009年3月から麻生自民党政権は景気刺激ために、2年間、休日で高速利用すれば、高速代1000円以下は距離で計算、1000円を超えた場合、1000円まで支払い政策)を利用して、京都から渋滞なく1時間以内の竜王インターチェンジを出て8号線に沿って「観峰館(かんぽうかん)」を目指し、道路の側の広い敷地にある「観峰館」を見つけました。吹き抜けの高いエントランスホール、城のような展示室、中国民間風な「四合院」、膨大な数々な中国文化の関連展示品…すべて予想以上のものです。この観峰館は、「日本習字教育財団」の創始者である書道家の原田観峰先生(1911〜1995))が長年にわたって集め得た中国文化関連の文物を常設している展覧館です。その中には、康煕帝の書斎「三希堂」を真似て展示しています♪…


滋賀県東近江市五個荘の「観峰館」にある「澹泊敬誠殿





日本中部山奥に隠した「天安門」  これは姫路西インターチェンジの近く「太陽公園」にある「天安門」及び「天安門広場。北京の「天安門」は明の永楽帝時代の1417年に建設された「承天門」です。この門は1457年に落雷で焼失し1465年には再建されますが、1644年の李自成農民蜂起軍は北京攻撃によって明王朝が滅亡した際に再度焼失しました。現在の門は清の順治帝時代の1651年に再建されたもので、このときに現在の天安門という名に改名されました。この天安門という名称は「天上の平和の門」という意味にも取れますが、満州語の名称は「天命を受けて安定した(平和な)国を治める」の意であり、それを省略した形が「天安門」と考えらています。


左の写真:兵庫県姫路市「太陽公園」にある「天安門」

始皇帝の兵馬俑は姫路の太陽公園で表しています
兵馬俑(へいばよう)は、西安市の北東30kmの驪山北側に平原の上にぽつんと小山が立っています、これ小山は、秦の始皇帝の陵墓です。でも発掘していません。発掘しない理由の一つは、遺跡の保存技術のアップを待ちます。1974年農民は偶然に田んぼで粘土で作った古代兵士の人形を発見しました。古代中国では死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどった古跡がありましたが、発掘結果は、3つ厖大な兵馬坑を発現、総面積は2万u、戦車(戦闘用の馬車)100台、馬俑600体、兵士俑8000台、皆は東を向いています!俑の表面には艶麗な色彩はわずかに残っています。そんな大規模な兵馬俑は世界でも例がありません。秦の始皇帝陵の一部として1987年世界遺産(文化遺産)に登録され公開されています。1号兵馬坑は長さ230m,南北62m、面積14.260u。2号兵馬坑は1号兵馬坑の半分ぐらいの大きさ、3号兵馬坑はもっと小さい、指揮官のグループらしい。史料により、始皇帝の遺体は、その兵馬俑たちが囲まれた中心の陵にいます。遺体は「水銀が流れている池(海を象徴する)に置いていました」、実には、1981年の調査により、その陵の周辺は水銀の蒸気が測定されました。史料は真実らしいです。


兵庫県姫路市郊外の「太陽公園」にある「兵馬俑」








中国に影響した日本




 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
日本語を中国語に始めて入れる先駆者たち 中国語の常用字は3500、常用単語は1万以上ありますが、,その中で、どのくらいが中国原産?どのくらいが台湾産?香港産?日本産?多分だれもはっきりと分かりません。まるで現在の英語の中で、どのぐらいが「イギリス原産?」「スコットランド産?」「フランス産?」「スペイン産?」のように簡単には言えないでしょう?しかし、私の感としては、江戸時代前に、日本で使用していた漢字は殆ど、中国原産、或いは朝鮮半島を経由して「渡来」たものでしょう。その当時, 中国語の中に、日本製の漢字の単語は、多分ひどく少なかったでしょう。江戸時代後期と末期は、日本の鎖国政策で、海外貿易できる国は、清朝とオランダなどの国でした。日本で始めてのオランダ語ー日本語の蘭和辞典は1796年出版の「ハルマ和解」。オランダ語に対して、カタカナで表現する以外には、漢字で単語も作成します。その時、中国にもなかった漢字の外来語が出てきて、日本人は漢字を工夫する必要がありました。そして、1811年(文化8年)に日本で初めて英日辞典が完成し出版されました。1814年(文化11年)には、日本で二冊目の英日辞典を出版しました。そして、日本では、新聞、出版物のなかの外来語を翻訳するときに漢字を使いました。しかし、ほとんど当時、中国で初めての英華辞典は1815年から1823年まで、マカオで分冊出版した「華英字典」でした。これは、世界で第一冊の英漢―漢英対照辞典でした。さらに、この辞典は中国で、西方の活字印刷技術で印刷された最初の中国語書籍でした。その後の清朝の光緒年代に、日本の明治維新成功は中国をかなり刺激しました。その影響で、1898年(光緒24年、明治31年、戊戍年)中国も光緒帝と康有為のグループが共同で「戊戍変法」を起こしました。しかし、ただ100日で西太后(光緒帝母親の姉)が鎮圧しました。しかし、時代の流れとともに、中国では留学風潮がみられるようになりました。1901年(光緒27年、明治34年)、清朝は西洋文化代表のアメリカと東洋文化代表の日本へ海外留学生の派遣が始まりました。1904年日本へ派遣された留学生は1300名、1905年には、8000名にもなりました。東洋留学風潮とともに、大量の日本製漢字外来語は留学生たちが持ち帰り中国の出版物にも入り込みました。もちろん、その時代の出版物や新聞の漢字外来語は、日本のハルマ和解の単語からか、或いは、マカオで出版した華英字典か、まだ研究が必要です。しかし、政治経済の漢字外来語で大量政治文章を書く第一人者は、日本に留学経歴がある人物としては、李大サがいます。かれは、1907年18歳で天津北洋法政専門学校に入学、1913年に卒業して日本へ留学しました。日本では、早稲田大学政治本科で学びました。日本は北洋政府の袁世凱大統領と、「21条」不平等条約(日清条約)を締結後、中国では不平等条約に反対運動が始まりました。李大サは、日本で日本留学生総会の愛国闘争に積極的に参加し、彼が書いた「全国の皆さんへ」通電は早速中国全国に伝わり、大サは愛国名士になりました。1916年、大サ帰国後、「新文化運動」にも参加、さらに、北京大学で経済学教授兼ね北京大学図書館主任になって、その時、北京大学図書館に職員になった毛沢東と知り合いました。そういった意味では大サは中国共産党の創立者でした。毛沢東の革命活動は、大サの影響で始まったのです。しかし、1927年4月6日、共産党粛清のため東北軍閥の張作霖が大サを逮捕、4月28日、絞殺されました。毛沢東は、このとき逃げ切りました。その以後、毛沢東は革命戦争で、たくさんの演説をし、文章も書き、革命勝利後に、4巻の「毛沢東選集」を出版して、これら書籍の中に見られる政治経済用語は、大量に中国共産堂の創始者である大サからの日本製漢字外来語でしょう。









京都嵐山公園(亀山公園)中の故周恩来総理の詩碑 この詩碑は昭和53年(1978年)8月日中平和友好条約調印した後の9月、日中国際貿易促進協会(JAPIT)発案、京都の嵐山(亀山)公園で遊覧して、「雨中2回嵐山を遊覧する」という著名な詩を残した中国故周恩来総理の記念詩碑を立つことになりました。この詩は、大正8年(1919年)4月5日、日本へ留学中の20歳の周恩来は帰国前に、京都へ見物しながら書いた詩です。詩の内容は、中国語:「雨中二次游着几株 到尽一山高 流出清泉绿许绕石照人 潇潇线光穿云出 愈妍 人万象真理 愈求愈模糊 模糊中偶然着一点光明 真愈觉姣 1919年4月5日」。日本語訳は:「雨の中を二度嵐山に遊ぶ 両岸の青々き松に いく株かの桜まじる 道の尽き 突然ひときわ高き山表す 流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす 雨濛々として霧深く 陽の光雲間より射してきて いよいよなまめかし 世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも 模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば 真(まこと)にいよいよなまめかし」 。周恩来は、明治31年(1898年)3月5日、江蘇省淮安の裕福家庭で生まれ、大正2年(1913年)天津南開中学に進学、大正6年(1917年)9月友人の援助をもらって日本へ留学しに東京へ来ました。1年半神田で滞在して、日本語予備学校で日本語を勉強。しかし、大学に進学失敗。大正8年(1919年)4月帰国。帰国前に、友人が誘って京都へ遊びしに着ました。













辛亥革命の賢内助梅屋庄吉と長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館 2014年4月26日長崎市舊香港上海銀行長崎支店記念館が開館。その2階には、「孫文・梅屋庄吉と長崎」のミュージアムがあります。梅屋庄吉(1868年1月8日〜1934年11月23日)生涯66歳は、日本最初の映画撮影会社「日活」の創始人でもあります。中国の革命の成功を心から望んでいます。彼は、孫文と知り合って、意気投合、誓いました「君は一刻も早く、革命の兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援します」。孫文は、感動して梅屋庄吉の袴の後ろに「慈母」の文字を書きました。孫文は梅屋庄吉氏とは、パーティで知り合いました。共通の知人ジェームス・カントリー師(宣教師、英国医学博士)の紹介でした。カントリー師は、教え子である孫文の革命運動のため、自分ができる全てを注ごうと決意を固めていました。そこで信頼に足る人物として梅屋庄吉を孫文に紹介したのでした。1895年1月5日、香港で写真館を経営していた庄吉のもとに、孫文は来訪しました。梅屋庄吉氏は香港では有名な日本人でした。捨て子がいれば、拾い養育します。困窮者には惜しげもなくお金を出します。そんな梅屋庄吉氏にカントリー師は絶大な信頼を寄せていたのでした。中国の現状を憂うる気持ちは庄吉も同じでした。「よくそんな大事を打ち明けて下さった。感謝します。喜んでお役に立たせて下さい」。そしてきっぱりと言 い切きました。「君は一刻も早く、革命の兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援します」と。梅屋庄吉氏は孫文の盟友として生きる決意を固めました。そしてその誓いを生涯守り通したのです。その時、庄吉28歳、孫文は30歳であった。




左の写真:南京市油画彫塑院王洪志の作品:梅屋庄吉、徳子夫人と孫中山

 

 



瀬戸内海を横断する明石大橋傍の孫文記念館「移情閣」2012年1月22日、明石大橋傍の孫文記念館「移情閣」を訪問しました。孫文は、孫中山、孫逸仙と別の名前もあります。中国の辛亥革命の領袖として、今まで台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国の政府から庶民までの尊敬を集めています。中国では「国父」と呼ばれています。辛亥革命の成功は現代中国と現代台湾の開始に成りました。この建築はもともと神戸で活躍していた華僑の呉錦堂(1855〜1926)の別荘「松海別荘」です。その中に後で増設した八角三層の「移情閣」を含みました。神戸でも素晴らしい景観が有名でした。1913年(大正2年)3月、孫文は革命を宣伝するため、且つ、募金、「黄埔軍校」を準備するなどの目的を持って日本へ来ました。3月14日、神戸の華僑や名人名流たちは「移情閣」で孫文の歓迎会及び昼食会を開きました。以後、呉錦堂氏はこの別荘を神戸華僑総会に寄贈しました。1983年、神戸華僑総会は「移情閣」を兵庫県に寄贈しました。1984年(昭和59年)11月12日、孫文の誕生日に、兵庫県は「孫中山記念館」の名前でオープンしました。この記念館はもともと明石大橋の場所に位置していました。1994年(平成6年)大橋を建設のために、一旦解体して、西南方向200メートルの現在地に移動しました。6年もかけて2000年(平成12年)4月に完成、展示は再開しました。2001年文部科学省より国の重要文化財に指定されました。2005年10月「孫文記念館」改称しました。(サロン写真、文)。

 

 




兵庫県神戸の明石大橋傍の孫文記念館








和歌山県白浜町の南方熊楠記念館にある孫文の歩み蹟」 (中国語) 2012年正月休みを利用して、和歌山県白浜町の海辺にある「南方熊楠記念館」を見物しました。意外に孫文の足元を見つかいました。南方熊楠氏(1867〜1941)は日本戦前の博物学の巨星。日本の学校の教科書に彼を紹介しています、日本では彼を知る人は少なくありません。今回の旅行は南方熊楠氏を深く理解するチャンスでした。でも南方熊楠様はまさか中国の建国の父と言われる孫文氏の友だちということは意外でした。今回は展覧会で孫文氏の帽子を発見!大興奮!この帽子は、中国人や台湾人や華僑たち皆が知っている帽子で、皆が探している帽子ではないですか?孫文氏は革命を起こす前にハワイで活動時期に良く見かけた帽子はこれです!歴史に残っている写真を探して、似ている帽子の写真数枚が有りました。しかし、もっと追跡した結果は、孫文氏が日本に残したものは、帽子だけではなかったのです。日本人妻の大月薫(1888-1970)(当時14歳、横浜女子中学3年生)と娘の宮川富美子1906-1990)、宮川家に引き取られ養育しました,日本人の妾の当時15歳の浅田春(1882-1902)、秘書兼通訳、もいました。





左の写真:和歌山県白浜町の南方熊楠記念館にある孫文の帽子

 

中国人台湾人に対して国恥記念なる山口県下関市の日清講和記念館  この記念館は、「春帆楼」です。明治28年(1895年)3月20日に開かれた日清講和会議の会場に使用されたことにより、一躍全国にその名を知られるようになったもともとお寺が所有する料亭です。日清講和会議と下関講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月、講和会議の舞台として開館されました。講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示しています。また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介しています。春帆楼は、もと阿弥陀寺の方丈のあった所で、同寺が廃寺となった後、もと豊前の国の眼科医藤野玄洋が買収して、医院を営んでいた所ですが、玄洋の死後、未亡人ミチが旅館兼料亭として経営しました。 日清講和会議の背景は、清朝は甲午海戦中北洋艦隊の失敗はじめ、次々軍事失敗し、講和会議を要求して、明治28年(1895年)3月20日、日本の下関(そのとき馬関)日清戦争の講和会議が開催されました。交渉で日本は、日本の国家予算の4倍以上にあたる「3億両の賠償金」。「遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること」。加えて「清の重要な港を開港する」ことを要求しました。4月に、賠償金2億両で合意、以外は、ほぼ日本の要求通りで合意に達し、日清講和条約、いわゆる下関条約が結ばれました。この条約で、清朝政府の腐敗と無能が世界に暴露されました。(写真王宏領 サロン評論)

 

 




山口県下関市にの日清講和記念館





「岐阜公園にある中国人殉難記念碑」  2014年正月岐阜旅行中金華山麓の岐阜公園に中国人殉難記念碑」を見つけました。碑上のサイインは「平野三郎」氏です。碑の建てた時間は昭和47年(1972年)6月。すなわち、日中邦交回復の年に建設しました。平野三郎氏は、1966年から1976年まで10年間の岐阜県知事でした。この記念碑には、「太平洋戦争の末期、日本国内戦争関連の建設工事に従事された4万人の中国人のうち6830人が死去、岐阜県には、中国人は1689人、うちに73人が死去、碑文には、この73人の名前が彫刻されていました。このような記念碑は、日本では数少ないです。本サロンは今調査続けています。日中は今は、ぎくしゃくした関係で、このような歴史の証拠は大変重要です。日中不再戦は日本人と中国人の共通の望みです。これから両国の間でどんな衝突でも、戦争の道だけは、避けるべきである。」(サロン)






左の写真:岐阜公園にある「中国人殉難記念碑」

 

 


 

中国の大自然と社会



中国ではもう一種類の象形文字;「東巴(トンバ)象形文字」が2003年ユネスコの世界記憶遺産に登録されています ◆トンバ文字は雲南省の麗江に生活している納西(ナシ)族使っている文字です。文字は、甲骨文とそっくりな象形文字です。麗江は世界自然遺産に登録されている美しい自然環境です。「納西(ナシ)族は麗江に生活して雲南省の25少数民族の一つです。ナシ族は歴史中「走婚」という婚姻制度が有名でした。この婚姻制度は、家の主人は、姉妹の男兄弟の一人。一般的は長男です。姉妹は家にそれぞれの部屋があります。夜になると、恋人は家の後ろの入り口から女の部屋へ行きます。同時に、自分のベルトを門の上に掛けて、「今は男が在室」という印しです。朝になると、男は自分の家へ戻ります。そして、朝の村路で男があふれています。女は妊娠した場合は、自分の男兄弟が世話して貰います。生まれた子供はこの世話した兄弟をお父さんと呼びます。この婚姻制度は世界でも珍しいですので、世界の人類学者に注目されています。現代は、中国政府はナシ族の走婚制度を基本的に禁止していますが人類学としての研究が続けられています。ナシ族には「トンバ」という「司祭」の宗教や祭りの主催者の職業があります。トンバたちは独特なもトンバ文字で代々継続しています。20世紀30年代から注目されて、中国や海外の研究者が調査や著作でトンバ文字を研究しています。いまは全部1400文字以上が確認されています。このトンバ文字の特徴は、口語を記録する言葉です。しかも部落により統一もしていません。内容は、宗教、祭り、日常生活など、理解し難い言葉も多いです。面白いことは文字の色が文字の意味を左右します。例えば、同じい字、黄色は「金」、黒いは「悪」など。絵文字に近い独特の象形文字です。構造は古代中国の甲骨文字の類似点も多いです。例えば、写真中、左上は「愛」、右上は「客」、左下は「相談」、右下は「夢」。ドンバ文字で作成された古代ナシ族の百科辞典ともいえる宗教典籍「トンバ経」があります。この「トンバ経」は2003年ユネスコの世界遺産に登録されました。(サロン)

右の写真:雲南省麗江にいる納西族が使用している「東巴文字」








中国でもっとも美しい田園風景−田舎江西省務源務源は江西省東北地方にあります。その周りは、東は、上饒市があります。「徽州文化」の発祥地。さらに、歴史で陶磁器の名城の景徳鎮もあります。南は、世界自然遺産の「江南第一仙山」の三清山があります。北は著名な黄山もあります。う源は「中国で一番の田舎」とほめられますし、「本の郷」「茶の郷」ともほめられています、ほとんど褒め言葉です。ここには南宋著名思想家朱熹の故郷です。朱熹は日本にもかなりの影響がありました。中国と同じく日本でも「朱子学」「朱学」として、朱熹は中国の哲学、思想学を日本で広げた第一人者とも言われています。ウ源の文公山には、朱熹の歴代「祖墓」があります。これには紀元1150年(南宋紹興20年)朱熹は初めて故郷へ戻って墓参り時、自分の手で植えた24本の杉があります。今は一番高い杉の木は39メートルです、これら杉の林は、楊子江以南には唯一な杉の名所です。う源には、野生の山椒魚が生息していて有名ですが、近年人工養殖もされています。


右の写真: 江西省務原の朝霧






中国旅行ネットで「観光スポットでどういう風にあなたを騙すか」というアドバイスの文章を紹介: ◆1 「嫁ごっこ」にする雲南省の西双版納(シーサンバンナ) ◆2 何でも高値な四川省の「九寨溝」 ◆3 線香でぼったくりの四川省峨眉山!◆4 入門券超高い価額なチベットのラサのブダラ宮!◆5 うそばかりの山東省労山の「道士」! ◆6 レーズンの高値は信じられない新疆トルファン! ◆7 偽もの殆どの西安市の「兵馬俑」! ◆8 玉石は偽ものも混ぜている雲南省の大理!◆9 小姐で騙す広西省桂林と陽朔!!◆10 乗馬で客を騙す内モンゴル草原の騎馬ツアー! ◆11 怒りっぽい山東省泰山の観光スポットの観光ガイド ◆12 無理やり買わせる海南島三亜の出店 ◆13 「1本6百元から6千元」押し売りの河南省少林寺の線香 ◆14 無免許ガイド連れて偽玉石店巡る北京十三陵 ◆15 めちゃくちゃお金取られる万里長城の「一日遊」  ◆16 新鮮な魚貝ほとんど出ってこない河北省北戴河のリゾート地 ◆17 「単価1560元のジンギスカン」 天価の内モンゴル的フロンベール草原 ◆18 「無料ガイド」に高く支払われる浙江省の黄山 ◆19 シャッター押す頼めば現金請求される上海外灘! ◆20 販売している武夷山茶ではない福建省武夷山!◆21 ちんぴらややくざだらけの「張家界国家森林公園」!


チベットのラサのブダラ宮











「2012年11月3日、4名の日本旅行者は中国の河北省懐来県瑞雲観郷の横嶺山にある明残長城の烽火台遺跡で遭難」アミューズトラベル社主催の「万里長城100キロ縦走」登山ツアーは日本人4(76才,68才,62才と,59才)、中国人ガイド1、当日、北京在住の山ガイド1も加入、全部で6。3日朝、北京郊外の門頭溝から登山、午後、14キロの河北省懐来県瑞雲観郷の横嶺山にある明残長城の烽火台遺跡に辿り着いた。しかし、午後3時から大雪と吹雪の天気になった。視野も狭くて数メートル以外にも何も見えなかった。避難場所も見つからなかった。日本の高齢登山客たちは段々意識不明に、低体温状態に落ちた。携帯電話も不通、当夜11時に山ガイド1名が自力で下山に成功。深夜、懐来県政府は呼びかけて、緊急動員で、地元の警察、消防員、医者の40数名の複数の救援チームを結成、瑞雲観郷村民ほぼ全員の90名も参加。4日朝、駐在軍人20数名も参加。総数150名で全力救援。4日朝8時、遭難者発見、すでに死亡、4日午後4時、2人を救出成功、別の1名は、すでに死亡。行方不明の1名は5日午後に見つかりました、死亡。

左の写真:河北省懐来県瑞雲観郷の横嶺山にある明残長城









中国武術南拳南刀チャンピオン毛亜h毛亞h 1982年12月3日淅江省温州鹿城で生まれ、今(2011年)は淅江大學民族伝統体育2006級専攻生。身長160センチ、体重57キロ。1992年淅江省武術隊に入隊。1994年第10回淅江省武術大会で南拳のチャンピオン。2002年、国家武術隊に入隊。2003年中国全国選手試合で南拳及び「三項全能」の2つチャンピオン。2004年、第15回アジア武術大会で、南拳の三項全能のチャンピオン。2005年第10回全国運動会で南拳のャンピオン。2006年第16回アジア武術大会で、南拳および三項全能のチャンピオン。2007年四川で国際武術大会で南拳及び南刀のチャンピオン。2008年中国大学生選手権大会で南拳、集合剣のャンピオン。2009年第11回全国運動会で南拳及び南刀のチャンピオン。


左の写真:2009年11回中国全国運動会南拳チャンピオン毛亞h







中国の自然景色これは典型的な南方水郷です。中国では、楊子江の南には、山は殆どない平らな華北平原と楊子江三角州地区です。平原地方は、水たまりからの小さな流れがあちこちに見られます。さらに秦の時代から運輸のために作った運河もあります。華北平原上の運河は北京から杭州まで数千キロの長さの博大な古代工程です、その偉大さは万里の長城も比べものになりません。運河の流域は、河北省から江蘇省まで沢山の町を通っています。この風景は、町中に流れている運河と両岸の典型的な風景です。古代運河の広さは20メートル前後、深さは3−5メートル。清の時代は、開国清皇帝乾隆帝は、「龍舟」を作って、数年に一回のぺースで「遊江南」の時、この運河を利用しています。勿論、運河のメイン仕事は「遊江南」ではなく「南粮北調」です。即ち南方の米や果物などを北方へ流れ、運搬船の返路は「北煤南下」です、即ち、南方の家庭の燃料を運びます。しかし、運河の流れる速度はかなりゆっくりですので土、砂のたまるのもひどいですので、マンテナンスは大変、大量な河段は今までも「不通」です。



右の写真:無錫市郊外の運河風景






INDEX





世界の観光都市京都京都の祇園祭り京都の四季

日本で見える中国文化正真正銘の避暑山荘の「澹泊敬誠殿」は琵琶湖畔で再現戦国時代の銅馬車は南知多半島発見始皇帝の兵馬俑は日本で「出土中国「牌楼」は和歌山県新宮市の徐福公園の玄関日本にの「天安門」は日本の中部山脈にある!大陸からの亡命者三千人は紀伊半島の熊野灘から上陸!奈良紀行丹後地方で出土した漢の銅鏡鏡鑑奈良正倉院国宝の唐代駱駝載楽士俑 

日中歴史文化交流徐福伝説最古い日本人の顔?
バーミャン後世界一楽山大仏京都の四季龍門石窟紹介奈良紀行丹後地方で出土した"唐"の銅鏡鏡鑑奈良正倉院国宝の唐代駱駝載楽士俑三星堆遺跡牛年猪年犬年鶏年猿年羊年馬年蛇年龍年兔年虎年上海写真見聞集鑑真和上展覧会講演会情報中国語を使って買い物日本の寿司般若波羅多心経中国人の仏教歴史観魏志倭人伝易経六十四卦景徳鎮陶芸食料品商標上の日本の民俗中日ビジネストラブル解消主婦の知恵中国人の生活習慣麻婆豆腐漢唐古詩新吟誤解しやすい中日同字異議字

中国の年賀状展覧会元旦詩話!中国文化サロン新年賀詩!2019年年賀状と12生肖










中国の観光スポット]



連絡先 下のロゴをクリック


*本HPの内容は、予告なしに変更されますので御了承をお願い申し上げます。